2018-01-10

上達すること。



とある自己紹介。
写真がうまくなりたい。

私もそう思うことがあった。
途端に写真を撮れなくなった。
楽しさを忘れた。
数年前、かつての話。

愛さんって、ガチの写真を撮るんですね。
あ、そうなんです。
女子フォトみたいの撮れないんです。

上手くって何?

常に写真機を持ち歩き、撮り続ける。
切り取るものへの情念。
それがあるかないか。
比べず、自己完結。
それがいいとおもう。

撮っても撮っても、
下手くそで、終に放る。
なん年か経って見返す。
撮った瞬間の全てを思い出す。
思いがけぬ良さを見つける。

ただ楽しくて撮ってる写真は、
どれもこれも光っている。
いいね!とおもう。
その感動を手放すくらいなら、
写真をうまくなんかなりたくない。

2018-01-05

スパイス的ミニマリズム。




ミニマルな生活を送って8ヶ月。
食べて、寝て、動く。
行動範囲は市内のみ。

あっちへ行ったりこっちへ行ったり。
広域に渡って活動する利点ばかり見ては、
そんな人たちを羨んでいる。

1人の人間が把握できる範囲を考える。
範囲は広がれば広がるほど、
身近なヒトモノコトを見落とす率が上がる。

動ける範囲で出来ることをする。
隣町へ行けるようになる時は、
会いたい人に会える時と心得る。

仕方なく身動きが取れない状況は、
生活をより豊かに彩るスパイスとなる。
続けてみると、地味さが愛おしい。
制限があるのも悪くない。

2017-09-26

折に触れて、SNSに思うこと。



年に数回、ぼーっと、しかし、ぐるぐると、考える。

昨夜、都内で暮らす友人と久しぶりに連絡を取った。
離れていてもゴシック文字の往来による【会話】ができるメッセンジャーで。
文字は書くのではなく打つのが、今では当たり前となった。

途中、かつて皆楽しんでいたSNS、ミクシーの話になった。
ものすごいスピードで盛り上がり、一気に廃れた。
御多分に洩れず、私もハマった。
現実に在るようで現実には無い世界。
”あんなに賑やかだったのに、今は誰もいないし何も動いていない、ちょっと怖いな”
と文字を打つ。

世界中と繋がれるフェイスブックの今は、高齢者の支持が厚いらしい。
離れていく同世代に聞くと「面倒くさい」とか「情報のひとり歩きや繋がりが気持ち悪い」とか
「繋がりたくない人とも繋がらなきゃいけない」とか「書くことがない」とか様々な意見がある。

私は時々、取り憑かれたように考える。
SNSに写真を載せることに意味があるのかな。
あの人嫌がってはいないかな。
いいね!なんて幻想だ、とか陰的な考えを重ねていく。

気に入っているインスタグラムで、大量の♡マークをもらうユーザー。
カフェ巡りや食をアップしている人を見ると大変心配になる。
毎日外食で、こんなに甘いもの食べてて大丈夫なのかぁ。
糖尿病になっちゃうんじゃないかと。
ただのお節介に過ぎないのだけれど。
趣味なんだし、思う存分やっていいと思う。
けれど心配してしまうのである。

心を通わす、実際に会う、手紙を送る。
そんなことが主流だった過去が懐かしいと時より強く思う。

個人的にはフェイスブックをイベントの詳細を確認する場所として置いている。
一定のサイクルで、手放したくなる気持ちにかられる。
もっと淡白に、ドライになっていくデジタルの世界。
人間は進化する。
操られることに危機を感じる生き物だ。

写真を好む種類の生き物が、どこで写真を見せるのか。
自己満足なのか。だとしても、それはいけないことなのか。
なぜ見せたいと思うのか。シンプルに良いと思うから。
ぐるぐると、とんでもないところまで考えが飛躍する。

現実をただ切り取ることに優れている写真。
そこに幻想を塗り重ねて、見栄えを良くすると好まれる。
ありのままを受け入れられない民族。
考えることをやめてしまった民族。
うわべを取り繕う分厚い皮の民族。
だから、シャッターを切る。

最終的に【なぜ写真を撮るのか】という大きなテーマにたどり着くのが
一連の思考の収まり場所となっている。

2017-09-09

カメラのこと


富士フィルムのカメラが欲しい。
なぜなら、今のカメラは撮る時に緊張感を放つ人が多いからだ。
話をして撮るといい顔になる。
けれど、話をした時点で相手は写真に撮られることを意識する。
撮られる回数が増えていけば、その構える姿勢はどんどん薄まっていく。
信頼を得て、皆ゆるんでゆく。
でも、時間は限られている。
体力は日に日に落ちてゆく。
だから、小さいカメラが欲しい。
そして、何を切り取るかが重要で、カメラの種類なんかなんだっていいってことを身を以て感じたい。
素敵な写真をとる人だなとおもうと、富士フィルムなのだ。
レンズが好みなのだとおもう。

2017-07-24

こつこつ番外編【イラスト】

魔の4ページ目

姉が描くのをやめたページ。
4日目の飽き。
4日目のマンネリ。
容赦無く襲う魔性のページ。

乗り越えました。
乗り越えたらふっと上達した。
そんな気がしませんか?

ごちゃごちゃっと描く方が
それっぽく見えるのは
力を抜く加減がわかったからかなぁ。
あぁ、人生も一緒だなぁ
なんて思うわけで。

グレーゾーンだったり
曖昧さだったり
不誠実なのではなくて
敢えてボカして遊びを作ると
核が際立って見えるんだね。
それを知りました。

最後までやるのだろうか。
ここまできてようやく
描く楽しさを感じ始めた。

こつこつシリーズ。
涼しくなったら草取り。
やりたくて仕方がない。


2017-07-18

こつこつ番外編 【イラスト】

何にも考えない時間を、どう作るか。
絵を描くのが好きなので、家にあった姉のやりかけのイラスト練習帳を始めた。

15分でできる!と、謳っている。
が、正確性にこだわる私は色付けまでやると1時間くらいかかる。
また気がつくと根を詰める状態。
昨日はお喋りしながらやっていた。
案の定、下書きした線を間違えてなぞってしまい、内心「あぁ…!」と悔しさに苛立つと共に、気が楽になった。

そして本日、また間違えた。
でも、それが私の描く絵なのだから、間違えというより「色」なのだろうと思う。既に見たことのある何かと比べて、差があることに違いを感じても、誤りではないのだとおもう。僅かながら描くスピードが上がるようになったので、細かな描写を盗んでやるつもり。

さぁ、私はいつまで続くのかは誰にもわからない秘め事。










2017-06-15

少数派であること



小さな時から孤独を好んでいた。
少数派で居ようとおもったわけではないから、好んでいたというより結果的に少数派だった。

「少数派であること」によって、良い面と悪い面を両手で抱えこみ、行ったり来たりする思想をまとめたものをオリジナルの「価値観」として心に宿どすことを覚え、それを盾にして自分を守るしかなかったのだ。

小学校への通学途中に流れる川面を見つめ、「なぜ今私はここに居るんだろう」と幾度となく考え歩いていたことを当時は誰にも言わずにいた。
心のどこかで、大人に「正解はこれだ」と教えを説かれてしまうのが嫌だったのかもしれない。

経験から言うのだから寸分の狂いもないと言わんばかりに。
あなたのためだ一度だって間違いを犯さぬようにと。
間違うことがいけないことなのかと錯覚してしまうほどに。
守ってやると正義を語るヒーローを演じるかのように。

噴き出す感情や芽を出す疑問に対して、本能のままに夢中になり自分サイズで試行錯誤する。
その押し問答や創作、工夫をただただ見守り、行き詰まり反省し、どうにもならないと求められたときにこそ実体験に基づく必要最低限のあなた自身の考えを言葉に変えることが「教える」ということだ。

そもそも「教える」などと押し付けがましい響きが気に入らないので、「共に考える」としたい。
嫌だと思っていた失敗を恐れている大人たち。
私も気がつけばそんな大人の一人になってしまったのかもしれない。